中島みゆき誕生の秘話 2006年11月9日配信
歌手中島みゆきが誕生するに至った大きな要因が二つあります。
1.高校での文化祭
中島みゆきは高校時代、学校へは余り行かなかったらしいです。
中学までに5回も転居して、転校生の孤独を中島みゆきも抱いていたのだろうと推測します。
高校3年の時には、精神的にかなり参っていました。
「自分なんかいなくてもいいんじゃないか」と思い詰めたと故こすぎじゅんいち氏との対談で言っています。
青春の真只中にいるとき、自己嫌悪感から「自分なんかいても仕方がないのでは」と思うことはあります。
しかし、この二つは180度違います。
後者は生存を前提としていますが、みゆきの場合「生存否定」から始まっています。
中島みゆきは自殺を選ばず、文化祭のステージに一人で上がり、歌を歌うという行動を取ります。
もし、自分が本当に要らない人間なら、みゆき曰く「石でも飛んでくる」だろうし、みんな帰ってしまうだろうと思ったそうです。
みゆきの通った北海道帯広市にある柏葉高校は、もともと男子校だったので、自治会も男子が仕切っていました。
その自治会室のドアを開けたときの男子生徒の目は今でも覚えていると、やはりその対談の中で述べています。
「女が何しに来た!」と言わんばかりの目つきだったらしいです。
文化祭当日、みゆきは親に買ってもらったガットギターを弾きながら、数曲の歌を歌ったそうです。
ピーター・ポール・アンド・マギーという当時アメリカで流行していたフォークソングを歌い、
その中に、中島みゆきの作詞作曲した「鶫(つぐみ)の歌」という曲も交えたそうです。
石は飛んでこないし誰も帰りませんでした。
それどころか、話したこともないエリート学生から「よかったよ」と褒められたそうです。
中島みゆきは絶望の淵から這い上がれました。「歌」という自己存在証明を持ったことで、第一次中島みゆき誕生の卵が孵化したのです。
2.ポプコンと『私の歌う理由(わけ)』
札幌藤女子大学国文科に進学した中島みゆきは、すぐ近くの北海道大学のフォーク研究会に入ります。
歌にのめりこみ、「札幌の女王」「コンサート荒し」と呼ばれたそうです。
ヤマハ音楽振興会がアマチュアを対象として行うポピュラー・コンテスト(通称ポプコン)に参加し、入賞もしました。
プロへの誘いもあったそうですが、みゆきは断りました。
それは、ポプコンの前に課題曲として配られた谷川俊太郎作の『私が歌う理由(わけ)』を読んで天狗になっていた鼻をへし折られたからです。
中島みゆきは卒論に谷川俊太郎を選んだくらいですから、詩の持つ意味が有頂天になっていた自分へ大打撃を受けたのでしょう。
『私の歌う理由(わけ)』は、「私の歌うわけ」で始まる4行5連の詩で孤独な風景が描かれています。
『わたしが歌う理由(わけ)』 谷川俊太郎
私が歌うわけは
いっぴきの仔猫
ずぶぬれで死んでゆく
いっぴきの仔猫
私が歌うわけは
いっぽんのけやき
根をたたれ枯れてゆく
いっぽんのけやき
私が歌うわけは
ひとりの子ども
目をみはり立ちすくむ
ひとりの子ども
私が歌うわけは
ひとりのおとこ
目をそむけうずくまる
ひとりのおとこ
私の歌うわけは
一滴の涙
くやしさといらだちの
一滴の涙
大学を卒業するとみゆきは、実家の帯広に帰り、音楽活動をしながら産婦人科医師である父の手伝いをしました。
その合間に札幌のライブハウスでミニコンサートを開いていました。
私は札幌の友人から頂いたあるコンサートを録音したMDがあります。
そこではデビュー後に発表した曲に混じりピーターポールアンドマリーの歌も収録されています。
MCでは自虐と風刺を交えています。
産婦人科という人間の誕生を目の辺りにする仕事に中島みゆきは多くのことを学んだと思います。
翌年、ヤマハからポプコン参加の手紙が届きました。これには諸説があるのですがみゆきは参加を決意します。
地道な音楽活動を通して、また生命の誕生という人間の根源に手を貸すことで、みゆきは自分の「歌うわけ」を見つけたのでしょう。
1975年5月18日、第九回ポプコンに於いて「傷ついた翼」で入賞します。
9月25日、デビューシングル「アザミ嬢のララバイ」発売でプロとして活動開始。
11月15日、『世界歌謡祭』に於いて『時代』でグランプリを獲得。
かくして、中島みゆきの歌手としてのスタートが切られたのです。